音響バリヤ

サイゼリア

DAFT PUNK / RANDOM ACCESS MEMORIES

Random Access Memories

Random Access Memories

サンプリングされた思い出。

拾ってきたのは、当時の香り。

僕は残念ながら70年台~80年台の音楽に詳しくない(別に他の年代に詳しいわけでもないけど)。知識として知らないのもあるし、体感として分からないというのもある。生まれていなかったし、生まれても物心ついていたとは言えない。

知らないし、感じたことがない、はずなのに、それならばこの既視的な、暖かみの感情はなんだろう。このサウンドの懐かしさ。しかも、封を開けて一聴したときの、危うさみたいなもの。これはもしかしたら「ダサい」音楽なのではないかという危機感。

ディスコサウンド。AORレアグルーヴフリーソウル。きっと間接的に、断片的に、どこかで耳にしていたのだろう、僕が大きくなると共にメインストリームから消えていった音楽スタイルの、眩い夜の光とお酒の、その残響を。テレビとかで見聞きしたのかもしれないし、あらゆるアーティストの作品の中に、隠し味として散りばめられた、その香りを。生まれる前の音楽に触れるというのは、宝探しのようだ。その音が生まれた背景も、土壌も、その音楽が植え付けられた大人たちの若い頃の姿も、全てが想像の霧の中でありながら、しかし確実にその音楽自体は、妖艶に輝いている。歴史という迷路の中にあって、文脈の理解は困難で複雑だけど、確かにそれは美しく、またその美しさの裏に潜むものがすぐには見えないからこそ、さらにミステリアスに捉えてしまう。

なぜこの音楽は、こんな温かな気持ちで身体を揺らすことが出来て、そしてなぜ、現代にはそんな音楽が生まれ得ないのか?

 

ダフト・パンクは、やりたいことをやった、というよりも、ものすごい使命感に燃えて作品作りに取り組んだのではないかと、思ってしまう。今、あの古き良き音楽へのアクセスを促す、ハブとなる役割は、自分たちにしか担えないという確信と共に、古株から新世代まで、「ダンス・ミュージック・ミュージシャン」達が一堂に会して、全曲オリジナル曲ながら、当時の香りと思い出を、違和感なく再現し、総括し、その喜びと温かさのパッケージを、僕ら若い世代にプレゼンテーションする。何もミステリアスなことはない、踊れ、アクセスしろ!

 

『Random Access Memories』というタイトルが100点満点なのも、ダフト・パンクが"手当たり次第"にアクセスしたとも、我々に"いつでも・どこからでも"アクセスさせるディスクを用意したとも見え、それが記憶とも、思い出とも読み替えられる、そんなコンピュータ用語のもじりで、しかもダフト・パンクの代名詞であるロボットの顔の横にフリーハンドで走り書きされるという、様々な対立性を象徴させながら、その実わかりやすくエモーショナルに訴えかける演出に成功しているところ。本当にオシャレ、だ!

正直いままで、本気でダフト・パンクにハマったことはなかったのだけど、今回のアルバムで初めて、このロボット達がやろうとしてたことが分かった気がする。これを聴いてから、改めて過去3枚のアルバムを聴くと、まったく新たな視界が広げてくる。それは、ダフト・パンクがずっと裏でアクセスし続けていた記憶の景色、香りが、やっと僕たちにもインストールされたからだ。

 

そんな風にして、過去の宝物を贅沢に絞り出して、全面に押し広げた作品なのに、ドロドロせず、どこかスッキリした、哀愁のような喪失感も、やっぱりいつも通りだけど、いつもより強い。

まるで自らを「ダンス・ミュージックの抜け殻」のように見せること、相変わらず「中の人」を感じさせず、イメージを空洞化させることで、過去と未来をつなぐワームホールのようなアイコンに仕立て上げる。のみならず、抜け殻化したロボットがこんな音楽を思い出すことで、逆に現在のダンス・ミュージック(EDM?)への挑発的な問いかけにも見える。

様々な挑戦と意欲と狙いが織り込み済みの、オシャレに整えられたこの使命感に燃えたアルバムを、僕は長く愛聴するのです。そして勉強します。顔真正面ジャケは自信の表れ、名盤の自己申告。「ダンス・ミュージックを教えてやろうか?」というそのマスクの下からの視線を感じて。「薄っぺらい」「ダサい」は、ダフト・パンクではなく、俺に言え!