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音響バリヤ

サイゼリア

Christian Fennesz・Werner Dafeldecker・Martin Brandlmayr / Till the Old World's Blown Up and a New One Is Created

 

Till the Old World's Blown Up and a New One Is Created

Till the Old World's Blown Up and a New One Is Created

 

 大好きなCDを、このブログに貼り付けたかった。

もっと言うと、大好きなこのジャケットを。一枚の透けた紙を4つ折りすることでタイトルがこのように重なり、かつ紙の厚さによって単語が部分的に薄く、ぼけて見える、この繊細で、粋で、そして音楽の態度をまさしく表現したこの感動的なジャケットを、ここに貼り付けたかった。

Martin Brandlmayr と Werner Dafeldecker とChristian Fennesz。この界隈を好きな人にとっては、ごちそうさまですとしか言えないような人々による、じっくり熟成された「即興と解体と構築」。似たような名前の本を書いた批評家も居たような気がするけど、その批評家がこしらえたレーベルが、「音響系」を進んで世に売り出すことをしなくなってきたのも、この盤を出した頃からだったような記憶がある。

そういう時期的なものも相まって、この決定的な盤とジャケットは、90年代後半からゼロ年代に駆け巡った「音響」の試みとムーブメントに終止符を打つかのように、もしくは、音響系という「霧のトンネル(空洞)」から我々を抜けださせ、振り向いて目にする出口の光景のように、強く印象的に、僕の心の中で浮かび続けているのだ。きわめつけのこのタイトル付きで。

アルバムは2枚組で、disc2の3人それぞれによる小さなソロ楽曲がマテリアルとして存在し、それはどれも滋味があり心地よく「音楽」として聞けるのだが、それらを分解して再構築して、溶け合わせてなだらかにして、34分の1曲にしたdisc1は、すっかり固有の味を抜かれ、漂白され、掴もうとしては逃げてゆくような、静寂なる「音響」と化してしまった。

そこにあるのは、余白であり、一つ一つの素材の響き。ドラムやベース、ギターやビブラフォン、そして淡い電子音の、それらが「立ち上がってくる瞬間」と「消えていく瞬間」、そして「音が出ようとするまでの(瞬)間」を、交互に聴取させるその思想。それは、無音という音楽への望郷とも、新たな「most beautiful sound next to silence」の提示とも、はたまた電子音響やポスト・ロックという儚き音楽たちの有終の美とも、とれてしまうような、全てをやり尽くしながら、全てに等しく愛と計算を与える、一つの時代への回答。

このCDのリリースから5年経って、やっと改めて振り返ることができて、こうした音楽たちの存在した場が、生み出されてきた数々の響きが、やっぱり単なる空洞だったのでは、ということを思い知らされてしまうような、再確認と悲哀。

だけど、こうして空洞の中で耳を澄まして響きと同調し、自らも解体され場に溶け出し余白化ていくような体験は、決して儚いだけではない、いや、儚いと知ることこそ、最も輝かしい音楽体験だと思うことは、逆説的か、本質的か、どうか?

 

古い世界の爆破と生成は34分で成されても、爆破されていたことの認知は5年もかかった。この諦念みたいなものを基本ベースとして生きることが、次の新しい世界につながると信じて、いいんだよね。この音楽は希望、だよね?

(ただ好きなジャケットを貼りたかっただけなのに、音楽を聴くことは儚く哀しい希望である、と言いだすハメになった)