読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

音響バリヤ

サイゼリア

Seiho / Collapse

 

Collapse [ライナーノーツ封入・ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC509)

Collapse [ライナーノーツ封入・ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC509)

 

既に4,000円ほどタワレコで買い物したあとに、このSeihoの新譜の試聴機を見つけてしまい、黄色い袋を片手に持ちつつ、Apple Musicに追加するかどうかを検討するためぐらいの気持ちでヘッドホンを装着してしまったが後、そのめくるめく「音の存在感」に一瞬で心を奪われ、実は6,000円以上でタワレコポイントが10倍キャンペーンであったことにも気づき、恐る恐るこのワインレッドのCDをレジに持って行きながら、「さっきのとこれで合わせて6,000円越えるんですが、ポイント合算してアレとかそういうのは…できない、ですよね、ですよねえ~大丈夫です~」と言いながら購入するほどの魔力、そいつを、この音楽は持ち合わせていた。

Apple Music。これは大変におそろしいもので、こいつが始まってから僕の音楽生活は一変した。いや、本質的には何も変わってないのかもしれない。物理的なCDを購入するという衣食住の一つのようだった生態系の循環に大きな変化が生じた。しかしそれによって遺伝子の構造が変わったわけではない。

無形か有形か。CDマスタリング(&専用プレーヤー)の音質、音圧を求めるか。その選択の分水嶺は未だに自分の中ではっきり定まっているわけではない。頭のなかにある欲望のスイッチはまだ砂の中に埋もれていて、素晴らしい音楽に出会うたびにその砂を掻き分けてより鮮明にスイッチを見定めようとしている最中。

 

そんな中で、このSeihoの新譜は、砂をかき分ける必要のないほどの「音の存在感」、或いはクリアな切実さ、モノのような重みと、砂の間をすり抜けるような飄々とした優雅さと大胆さで、手にすることの意味を、言葉無くして表明していた。

しかし、Seihoはおそらく別に、音がモノとしてメジャーに流通することを目的として活動してきたわけではあるまい。なんてったってインターネット生まれだ。いや、ポスト・インターネットと言いたいのは周りだけなのも知っている。それでも、音なるものの無形さに自覚的でないはずがないし、だからこそ有形化することの歪みと意味、その差に生まれる「アートなるもの」を肌感覚で知り、それは例えばジャケットの生け花のように触手的に「思索」しているだろう。

 研ぎ澄まされ美しく掴みやすい音色が「花」ならば、それでも全体を掴もうとさせてくれないしなやかで詮索的な配置や所作が「生け花」というコンセプト、表現形態として、ここに微かに堂々と表徴されている。

 

あらゆる電子音楽の歴史の並列的な感覚。それはポスト(モダン)インターネットな人達にとっては言葉・国境を越えて共通する前提イメージであると思うんだけど、そこにどういったプリミティブさ、愛らしさ、郷愁を忍ばせるかという美的バランス感は、まるで電子音楽的なクラシカルな(マシニックな)価値観とは正反対をいくかのように大変私的で、ベッドルームどころか情緒、ナイーブさ、拡散しつつ収束する自我の運動まで、そのまま音の配置や分断された旋律という「所作」へ反映していく。それはこのSeihoのアルバムも例外ではないどころか、その内面運動を自らメタ視点で楽しみ、戯れる様子がとても生々しく、記録されている、ように聴こえる。

そして、リスナーがその戯れのプールを泳いでいる時にもまた、自由を覚える。それは共鳴なのか、研ぎ澄まされた音の水のような滑らかさから来るのか、いやいやこれこそがアートの本質だったのか。

 

Seihoは、タワレコポイントにも既存の生態系にも、新時代/旧来の電子音楽にも、どこにも還元できない新たな存在の証明を、僕の生活の中に一刺ししてくれている。その存在のこの生き物のような重さは一体何なのか。CDだからというわけではない。あまりにも優雅過ぎて、逆にそこに肉体美を見出すような重さ。水の中ではじめて、水より重い自分の身体を認知していくような、心地よい造形。

しかし造形美ともまた違う。それは常に目の前で"Collapse"していると言うのだから。

これをApple Musicで聴くのもいいと思う。そのほうがらしいのかもしれない。でも僕は目の前で崩れ落ちていくナイーブな重みを、支える器が欲しかったみたい。インターネットに住まうひとりの人間、として。